スクールMARIKOスタッフ・ブログ
2016年8月
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こんにちは。
スクールMARIKO2016 第四回「廃炉から考える未来」ゲスト:吉井千周(都城工業高等専門学校准教授)の様子をお知らせします。吉井先生はスクール始まって以来、初のことでしたが、マイクを使わず、生声で力強くお話ししてくださいました。
資料も、パワーポイントを手元のリモコンで操作しながらですので、パソコンに向き合いながらではなく、立ち上がり、こちらに向かい身振り手振りしながらの熱を帯びた説明でした。
「こちらの会場は銀行の金庫室を再利用して勉強会などのイベントに使われていますが、“原発は再利用できない”のです」と、話の導入は、スクールMARIKOの会場である“カラコロ金庫室”のことを引き合いに出しながら始まりました。
今回の講義のテーマはある一つの職業についてです。
飲食、車、道路、スマホ、学校、福祉、法律、娯楽、ゴミ処理など、僕らの生活は多種多様な職業の人の手によって作られたモノやサービスなどに囲まれています。数えきれない、中には想像したこともない職業もあると思います。
「廃炉」というのも、そのうちの一つで、僕はそれに関連する仕事に携わっている方にお会いしたことはありませんが、たくさんの職業の方が従事されておられます。
廃炉作業の現状ですが、デブリ(融け落ちた核燃料など)の回収に苦戦しているみたいです。ロボットを使った回収を模索・実験しているようですが、なかなか目途は立っていないというのがほんとのところのようです。今回のような事故はやはり想定していなかったのですね。汚染水の遮断も当初の計画が破たんしているようですし、最終処分場の問題もあります。何かを作ることと後処理は切っても切り離せないものですが、後者の技術がとても遅れていることが目立ちます。廃炉に係る人材育成も同じです。廃炉は何十年とかかります。現在従事している人たちは、年齢などの理由でいつかその職務を離れることになります。人材確保・育成は避けて通れない問題です。
原子力工学など、大学の学科で専門的に学ばれているそうですが、原子力を学ぶ学生は最盛期の1/8の数になっているようです。
今は、このような原発状況・社会状況ですので「未来へ向けた廃炉事業」というような形で廃炉を前向きな意味合いにし、国が育成プログラムをつくるなど対策をとったり、著名人が廃炉を推進するような発言も出てきています。
福島工業高等学校のホームページの専攻科紹介の一文です。
「このコースの教育研究は、復興人材育成特別プログラムの減災工学分野に関係しており、まちを災害から守る技術分野や災害復興に取り組む分野で活躍することのできる人材の育成を行う。」この動きをうけて研究者や科学者が育ち、廃炉や災害対策への技術革新が進むことを期待します。
しかし、福島原発の廃炉人材育成事業に携わっている吉井先生は「まずい状況」と言われます。
今の育成事業は作業する人をターゲットにしていない。作業は技術的にとてもむずかしいものですし、社会的なプレッシャーも高い仕事です。危険も伴います。そしてどのような人材を育成するか議論もされていないとのことです。
そしてこれらのプログラムやその前提に「原発をつくることそのものへの問いかけがない」と言われます。
ここ何年かミュージシャンらの活動で学ぶこと、考えるきっかけをもらうこと、新たな視点に気づかされることがたくさんあります。大友良英さんのプロジェクトFUKUSHIMA!、寺尾紗穂さんの「南洋と私」「原発労働者」、七尾旅人さんの沖縄基地問題、マームとジプシーのcocoon。そしてもちろんこのスクールMARIKOの活動も。
吉井先生のタイの少数民族、島大の福井先生のヴァヌアツ研究のお話を聞かせてもらうことも自分たちの生活や歴史を見つめ直すことにつながっていると思います。
スクまりの日直の浜田真理子さんがこう言われました。
「スクまりをずっとやって、たくさんの人たちの話を聞く中で、どこまで立ち返って考え直さないといけないかと思った時、やっぱ哲学なんですよね。」
たくさんの問題があり、それに対応するために是非、白黒、右左、様々な論争がありますが、これを本当に解決し未来へ進むためには、最初のところに戻って根本の問いを投げかけてみる。これが遠いようで一番の近道かもしれません。
盛りだくさんの講義内容でしたが、未来へ向けてスタート地点が見えた今回のスクールでした。
おまけ 最後は恒例になった音楽の時間。
吉井先生はトロンボーンを演奏されるそうですが、今日はユーフォニウムを演奏されました。最後に浜田さんが唄われたのは「浜辺の歌」でした。
長くなりましたが、ご来場いただいた皆様ありがとうございました。
ブログを見ていただいた方もありがとうございました。スクールMARIKOスタッフ岡田
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スクールMARIKOで会津の方をお迎えしたときなど、「会津と松江にはちょっとしたご縁があって...」とお話ししたいと思うのですが、そんな時には大概ど忘れして話が進まず、もどかしい思いをしています。
というわけで会津と松江のご縁話、備忘録としてこちらに書いておこうと思います。
それは2015年秋のイベント「松江ルネッサンス」でのこと。
この日の演目は我が日直・浜田真理子さんのミニコンサート、国宝松江城をつくった堀尾吉晴について作家・中村彰彦さんのお話し会、そして歌声喫茶(!)という盛沢山な内容でした。
真理子さんのライブのあと中村彰彦さんのご登壇。
堀尾氏のことに触れる前に、中村さんはこんな話をしてくださいました。
「実は会津と松江は江戸時代に交流がありました。」
「1800年頃の話ですが、会津の藩政改革をおこなっていた家老・田中三郎兵衛・玄宰(はるなか)の命により会津の使者が朝鮮人参の種を求めに松江に来ています。その購入資金は200両(!)。これを全部種を買うお金に充てよと。」
200両は現在の価値としては1200万~2000万円相当でしょうか。ともかく大金です。
「会津のどの土地に種がつくかわからない。少しだけ求めて全部枯れてしまったら無益なので、買えるだけ買ってきなさい。その種を会津五郡に播き、結果を見ましょうと。」
「その後栽培に成功し、藩の財政立て直しに貢献、また朝鮮人参の飴や天ぷらは名産品となりました。」
1800年頃と言えば、松平不昧公も藩政の立て直しに成功、それには朝鮮人参の存在が大きかったと言われています。
当時の朝鮮人参の価格は1斤(600グラム)で3両3分。現在なら20~30数万円と高額です。
田中玄宰はこの換金性の高さに目をつけた、ということです。また松江の人参方のような専売所モデルを見習い、会津でも藩の専売とし収入を確かなものとしました。
田中氏は会津ではとても有名な方のようで、(「玄宰」で検索すると会津の吟醸酒がヒットします。あやかって命名されたんですね。)司法改革や、清酒、織物、漆、漆器そして今回の朝鮮人参など地場産業を育て57万両にも及ぶ藩の借金を完済したとか。
今回こちらを書くにあたり田中玄宰氏のことをWebや書籍を探してみましたが地域の観光関係が多く、あとは中村さんの小説があるという感じでした。ビジネス書の主人公にもなりそうな方だけど意外と無いものだなあと思っていたところ当の中村さん、今月新しく書籍を出されました。しかもビジネス書。
『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』
帯のコピーは「藩窮乏の危機から一大飛躍!/上杉鷹山を凌駕する改革者がいた」
上杉鷹山の名前を聞くと反応される方も多いのではないでしょうか。その鷹山を凌駕するって!
気になる方は地元の本屋さんやWebショップでチェックしてみてください。
ビジネス書として、または小説の副読本として読んでみられるのも良いかと思います。
(小説の取材ノートを公開、という見方もあるかもです)
これを機に田中玄宰さんがもっと知られるようになるといいですね。
『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』(PHP新書)
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-82679-0
小説はこちら
『花ならば花さかん』(PHP文芸文庫)
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-76097-1
さて、いよいよ明日20日(土)はスクールMARIKO第4回「廃炉から考える未来」です。
タイから戻られたばかりの、都城工業高等専門学校の吉井千周先生をお迎えして廃炉カリキュラムその他の話をうかがいます。
週末の予定がまだ決まっていない方、カラコロ工房地下大金庫室へ、ぜひ!
皆様のお越しをスタッフ一同お待ちしています。
スタッフわかつき
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「わからないということがわかった。だから、やってみようと思ったんです。」
会場はなごやかな笑みに包まれました。スクールMARIKO第3回のゲストは、小規模発電所を地域ごとに置き、電力の地産地消を進める会津電力の副社長、山田純さんをお迎えしました。
山田さんは今まで通信/半導体の世界を歩いてこられ、前職では同分野をリードする企業の日本法人の社長を務められた方です。世界を相手に戦ってきたビジネスマンの話がうかがえる機会!ということで、個人的にもとても興味のある方の登壇となりました。
そんな企業マンをイメージしていたのですが、目の前に現れた山田さんはまなざしは優しく、物腰の柔らかい、とても人当たりの良さそうな方でした。山田さんたちは東京電力福島第一原発の事故のあと、大きな発電所で遠くの消費地に電気を流す今の仕組みに疑問を抱き、もし小さな発電所が作った電気を近くの利用者に届けたならどうなるだろうと考えはじめたそうです。
コスト面や安全性などどちらが良いか。得か損か。人に尋ねてもわからない。事例を求めようにもだれもやっていない。わからない。
そして文頭の言葉に続きます。
「わからないということがわかった。だから、やってみようと思ったんです。」向こう見ずというのは会津人の伝統にあるのでしょうか。
人のやってないことにチャレンジする姿は、様々な場面で見知ってきた偉人達とも重なります。さらに山田さんたちは考えます。作り出した電気を使って地域の産業を興せないか、ワイナリーを造るのはどうだろう。
「人がいて土地があってエネルギーがある。なんとかなるだろう、やってみよう」(!)
ぶどうを育てることから始めて、収穫、醸造、出荷と顧客を巻き込んでの参加型のビジネスを企画します。震災を目の当たりにした時、「何かをしたいという気持ちがあって、そちらに進むことの方が意義があり、また楽しそうだったから。」
山田さんはやさしい笑顔で語ってくださいました。質問コーナーではいつもより多くの質問が。これも山田さんの人柄でしょうか。
会津電力の事業、売電、融資、収支、雇用のこと。バイオマスのことなども。もっと聞きたい、うかがってみたいという皆さんの気持ちがとても伝わってきました。「...な電気を販売したら買ってくださいますか?」「買います、ぜひ」
スクまりのエンディングはいつも和やかな雰囲気なのですが、今回は一層和やかなエンディングとなりました。およそマーケティング的な裏付けや確信の無いまま、逆に自分たちの好きなように楽しみながら起業されている姿に圧倒されるとともに羨ましく思いました。
その姿から、どんな時も前をむいて歩いていく、そんな力をもらったような気がします。
会津電力の興した地産地消のビジネスがたくさんの実をつけますことを期待とともに願っています。スタッフわかつき